丹波立杭焼

語り継ぐ、窯ものがたり

5代目剛・京都から丹波への回帰。
EP 05.

5代目剛・京都から丹波への回帰。 5代目剛・京都から丹波への回帰。

俊彦が60歳を迎えた2005年、京都での修行を終えた息子の剛が、丹波に戻ってきました。大学に入るまでは、焼きものの道にとくに興味はなかったという剛。しかし大学の陶芸科に進み、自分の表現を模索するようになるにつれ、次第に父がしてきた仕事に畏敬の念を抱くようになったといいます。

剛)

「最初は、なんで父はもっと作家的な表現をしないのか、地味だな、面白くないな、ぐらいにしか思っていなかったんです。でも焼きもののことがちょっとずつわかり始めて、父が生きてきた時代とか、師匠やその周辺の人々との関係を知るうちに、僕が親父の仕事を引き継ぐのはとても無理だ、と思いました。たとえやったとしても、それは単なる亜流、形だけの模倣で、本質のずれたものになってしまうと。そこから丹波とか父の仕事に目を向けるのをやめて、大学卒業後は京都で弟子入りしたんです。」

その後、30歳で独立してから丹波に戻るも、しばらくは丹波らしさとは距離を置いた半磁器などの作品をつくっていた剛。そんな剛の認識を変えたのが、2005年から5年間にわたって兵庫陶芸美術館の設立準備に関わった経験でした。学芸員の解説を聞きながら、貴重な古い品を観察し、これまで知らなかった丹波焼の歴史や変遷に触れて、その魅力に開眼していったのです。

剛)

「そこから自分でも薪窯をやり出したり、土を探して掘りに行ったり、窯をつくったりっていう、焼きものの原点的な面白さを知っていったんですよね。5年ぐらいは、自分のオリジナルの表現と、丹波らしさをうまくミックスしたしたものができないかと試行錯誤もしてみました。でもその2つの世界は、どうもうまく折り合わなかったんです。

それで40歳になるタイミングで、無理やりミックスするのはやめて、2本柱でやっていこう、と決めて今に至ります。この2本柱をいつまでやり続けるか、まだわからないですけど、究極の選択で、どっちを選ぶねんっていう話になったら、残るのは間違いなく丹波焼の方でしょうね。」

剛が40歳で開いた個展「思惑」での出品作。
剛)

「今は、丹波焼の本質とは何か、を追求するのが一生の命題だと思っていますから。丹波焼の表現は幅広くて、何でもありのように見えるけど、それでもその真ん中を流れる本流があるはずで、その流れに父もいるし、僕もいたい。その本流を考える上で、絶対に守らなければならない最低条件は、ここの土で、ここの木を燃やした灰で、ここの人間がつくることかなと思ってます。穴窯か登り窯かっていうのは二の次でね。

正直なところ、戻ってきてからしばらくは、ここの土になじめなかったんで、信楽の土を半分近く混ぜながら使ってました。でも徐々に、“この土だからこの製形、製法なのか”ということがわかってきた。絶対的に土が出発点なんです。」

近年、精力的に取り組んでいるのは、呉須釉薬を用いて塩窯で焼き上げる青い作品群や、かつての石黒釉の黒を再現した作品群。また、室町中期〜後期に見られた紋様も猫掻手という紋様を、現代感覚でアップデートして作品に取り入れたりもしています。父と同じ糠釉を使ったものも焼いていますが、使う土を少し変えているため、俊彦のものとは表情が違うのが面白いところです。

剛の作品。塩窯敲紋ぐい呑
猫描手の作品を作陶中の剛。
2024年夏取材(聞き手:QUILL 松本幸)