丹波立杭焼

語り継ぐ、窯ものがたり

ものに嘘をつかないように、正直に。
EP 04.

ものに嘘をつかないように、正直に。 ものに嘘をつかないように、正直に。

戦後間もない頃に設立された窯業試験場がもたらした、さまざまな技術革新。そして1950年代に前後してやってきた民藝のつくり手たち。そんな先人たちの志に支えられて、斜陽の様相を示していた丹波は生き永らえ、「暮らしに寄り添う民藝のうつわ」という文化を花開かせました。

そんな時代に身をおき、13年間にわたって生田氏のもとで働いた俊彦。早くに両親を失った俊彦にとって、生田氏は師匠であると同時に、父のような存在でもあり、その家族のような絆は、俊彦が1977年に独立してからも続きました。息子の剛も、物心つく頃から生田氏を「釜屋のおじいちゃん」と呼んで慕っていたほど。

釜屋での様子。俊彦は左から二番目、生田は右から二番目
「釜屋のおじいちゃんの住まいは、外国製の絨毯や趣のある家具があって、かっこよかったなあという記憶があります」と剛。
剛)

「父が一番弟子だということに加えて、祖父の力磨に世話になったという思いが、釜屋のおじいちゃんの中にはすごくあったみたいですね。それで父にも目をかけて可愛がってくれていたみたいです。」

俊彦)

「独立して最初に焼いた窯が、ほとんど全部失敗した時は、こんなんで生活でけへんやろ、言うて師匠から退職金代わりにとお金を頂いたこともあった。」

剛)

「そういう師弟を超えた親子のような関係というのは、僕から見てもすごいと思いますね。独立してからも、やっぱり戻ってきてくれへんかって言われたこと、あったんやろ?」

俊彦)

「そんなに出来のええ弟子ではないんやけどな。家内なんか、そっちの方が家計が安定するから、それがええわ、いうて喜んでたわ(笑)。独立してからも、若い衆が喧嘩してるから仲裁に来てくれいうて、夜中に呼ばれて行ったりしてたな。」

そんな生田氏も、55歳という若さで1982年に逝去。生田窯があった土地は地主に返却されました。しかし1985年に生田夫人が亡くなってしまってからは、俊彦は師匠がこの地で生きた証を残そうと一念発起。生田窯があった土地を買い受け、「俊彦窯」の分窯として使うようになりました。

俊彦にとっての基本は、まず何より丹波の土を使うこと。師匠から教わったしのぎや面取り、糠釉も、昔と変わらず使い続けています。傍目には何十年と同じことを繰り返しているように見えて、つくり手は1回窯を焼くごとに、自らを試されているようなもの。その終わりのない試みに、実直に向き合い続けたいというのが俊彦の思いです。

俊彦)

「糠釉の色味の出方は焼くたびに微妙に違う。籾を燃やした灰に、くぬぎやナラやらを燃やした木灰を混ぜるんやけど、この木灰の質が毎回違うからな。成型までうまく行っても、釉薬が調子悪くてうまく行かんことがたまにあります。それから師匠がおった頃から、古丹波みたいな雰囲気を再現できる土はないかと探して掘りに行ったりもしよったけども、今の土と昔の土とでは成分が違うのか、なかなかうまく行かんことが多くて、歯がゆい思いはしたな。」

2013年には脳梗塞に倒れましたが、再び窯場に復帰。陶工生活60年を過ぎた今も、朝8時半か9時には仕事を始め、昼食後にいったん昼寝をして体を休めてから、また19時ぐらいまで働く、という日常を送っています。ものをつくる上で、大切にしていることは?と尋ねると、「ものに嘘をつかんように、正直でいることかな」という答えが返ってきました。

俊彦)

「ものをつくるんは楽しみでもあるからな。毎日、寝間に入ってから、明日はああしようこうしようって考えながら寝るしな。年が寄ってくるほどに、そう思うようになった気がします。

民藝の思想は奥が深くて、わかったつもりになっても、わかっていない。そういうもんだと思います。それでもなんとのう、昔、名もない陶工がつくってたような、ひ弱でなく強くて頑丈で、激しい使用にも耐えられるもの、そういうものをつくりたいですね」

窯には試行錯誤を繰り返した器たちが多数置かれている。
2024年夏取材(聞き手:QUILL 松本幸)