丹波立杭焼

語り継ぐ、窯ものがたり

しのぎや面取り、糠釉。師匠と築き上げた技。
EP 03.

しのぎや面取り、糠釉。師匠と築き上げた技。 しのぎや面取り、糠釉。師匠と築き上げた技。

生田和孝氏といえば、米の籾殻の灰を使った「糠釉」のほか、「しのぎ」「面取り」といった技法の使い手として有名。意外に知られていないことですが、今でこそ丹波で広く使われている「しのぎ」、生田氏が焼きものに取り入れる以前は、丹波にはほとんどなじみのないものでした。

俊彦)

「あれは昭和42年か43年やったと思うわ。休みの日に大阪の骨董屋に出かけていった師匠が、東南アジアの焼きもので、しのぎが入っとるやつを買ってきたんです。師匠と私と、もうひとりの弟子の山下の3人で、これはどないしとるんやろ言うてね。今でこそ、“そんなことか”っちゅうようなもんやけど、あの時は、ああでもない、こうでもないって、ずいぶん研究したもんやで。

ある日、私が小さいろうそく徳利をつくった時に、帯鉄(細長いリボン状になった鉄)を曲げたやつで、しのぎを削ってみたらうまいことできた。そこからいろんなものにしのぎを入れるようになったんです。」

生田氏や俊彦たちがしのぎ表現の先駆けになったのは、丹波という産地の特徴と深く関わっています。そもそもこの地で伝統的につくられていたものといえば、甕(かめ)や骨壷、薬品瓶、徳利といった雑器が大半。皿や茶碗、鉢などといったうつわ類はほとんど生産されていませんでした。

それゆえ、俊彦らの子ども時代は、陶工の家庭であっても、食卓では瀬戸ものを使っていたほど。つまり丹波が民藝の産地として認識されるまでは、しのぎのような意匠をほどこす対象がなかったといえます(ごく一部、昔の傘徳利にはしのぎの入ったものもある)。

俊彦の作品。掛分鎬手鉢
剛)

「民藝ブームによって食器をつくると言う動きが始まり、生田先生もその一端を担ったわけですね。しのぎを追求するきっかけになった骨董が一体なんだったのかというのは、後日、兵庫陶芸美術館の学芸員だった梶山博史さん(現・東洋陶磁器美術館所属)が聞き取りに来られてね。

父の記憶では、し瓶みたいな形をしてて、丸く膨らんだ注ぎ口がついていたと。そしたらそれは“ケンディー”とか“おっぱい徳利”と呼ばれる、東南アジアの焼きものだと梶山さんが教えてくれました。梶山さんも、“ケンディーにしのぎがほどこしてあるのは見たことない”って言うておられたけど、いろいろ調べられた結果、やっぱりしのぎがほどこされているのがあったそうです。」

生田和孝 黒釉鎬軍持 1971-1973年 兵庫陶芸美術館(田巻敏昭コレクション)

俊彦)

「あとは面取りのものも師匠と一緒によくつくりました。あれは李朝のものを手本にしてます。面取りも、師匠がやり始めるまでは、あんまりなかった。そうやって私らが若い頃、1967年とか68年ぐらいから、ものづくりの幅が一気に広がったんやな。あの頃はよく師匠と土を探して掘りに行ったりもしよったし、窯も結構つくったな。」

剛)

「生田先生は丹波式のズドンと長い窯の後ろに京式の窯をくっつけたりとか、いろいろ試行錯誤してたらしいですね。」

俊彦)

「それで焼いてみてあかんかったら、こんなもん潰せ! 言うて、また私ら弟子が2〜3日後につくり始める、そんなことが何回かありました。ほんでも窯をつくるのんは面白いで。」

師匠がめざす焼き上がりに少しでも近づこうと、知恵を絞りながら汗水垂らして土を掘り、窯をつくる。そんな経験を通じて、土と火と窯のままならない関係の奥深さ、むずかしさを、俊彦はからだで学んでいったのでしょう。

作陶途中の壺。中央がしのぎ、前方・後方が面取り
2024年夏取材(聞き手:QUILL 松本幸)