こうして1964年、生田和孝氏の一番弟子として、焼きものの世界へ本格的に足を踏み入れた俊彦。その修行時代は、さまざまなつくり手たちとの交流に彩られることになります。河井寛次郎や浜田庄司、黒田辰秋、芹沢銈介。18歳でこの世界に入った俊彦は、これら民藝の巨匠たちと直接出会えた、最後の世代といえます。
「1964年の10月、ちょうど東京オリンピックの期間に、生田師匠ともうひとりの弟子の山下と3人で、清水五条の河井寛次郎先生のお宅に伺ったことがありました。いろんなものを見せていただいて、こんな暮らしがあるんやな、すごいな、と思うたんやけども、あの時、河井先生が、“生田を支えてやってくれ”、と私らにおっしゃったのは今でもよう覚えてます。それからオリンピックをテレビ観戦さしてもらって、あの時は棒高跳びの決着がつかずに、試合途中でおいとましたんやけど、丹波に帰りついてもまだ試合が続いてました。」
河井寛次郎が丹波にかけた期待は大きかったのでしょう。生田氏の前には、河井寛次郎の元で学んだ奥田康博氏が丹波にやってきて、黒釉を使った独自の作陶を始めていました。また生田窯には、のちにバーナード・リーチの妻となるアメリカ人陶芸家ジャネット・ダーネルがしばらく滞在したこともありました。
「ダーネルさんは背が男みたいに大きいから、子どもがよう泣きよった(笑)。私は英語もでけへんから、ただ一緒に生活したり仕事したりしとったわけや。」
民藝に情熱を傾ける人々の中で揉まれ、見聞きすることを貪欲に吸収していった俊彦。一方で、師匠である生田氏は、この地に宿る「丹波らしさ」を、俊彦が受け継ぎ守ってゆくことを望んでいたといいます。
「生田師匠は、河井寛次郎先生から薫陶を受けた人ですし、私も焼きものに対する姿勢とか民藝の思想は、すべて師匠から学んだと思うてます。ただ、それ以外の技術的なこと、丹波のつくり方みたいなことは、親父の同級生の岸本さんという職人によう教わりました。
たとえばロクロでいうと、師匠は京都で学んでるから右回りなんやけど、私に対しては、“お前は丹波の人間だから、丹波のやり方で、左で回せ”と言うんやね。師匠の元には弟子もたくさんいましたけども、丹波の人間は私だけやったから、左で回してたのも私だけです。」
「私は丹波の人間じゃないから」とよく口にしていたという生田氏。そこにあったのは、丹波という土地・文化への敬意だったのかもしれません。ちなみに左回転の伝統は、俊彦の世代を境に、時代が下るほどに薄れ、現在は丹波でも他産地と同様、右回転でろくろを扱う人が多数派になっています。
そして当時、他産地からやってくる人が驚き戸惑ったもうひとつのものが、粘土質が少なく成形しづらい丹波独特の土質でした。
「私なんかはそれしか知らんから比べようがないけども、浜田庄司先生なんかは、丹波でちゃんとできたらどこ行ってもできる、て言うてましたね。」
すると、横で話を聞いていた息子の剛がこんなふうに言葉を添えます。
「やっぱりめちゃくちゃつくりにくい土だと思いますよ。腰がないし変形はきついし。僕は一度丹波を出て京都で修行した身ですが、こっちに戻ってきてすぐは、まともにつくれなかったですから。鯉江良二さん(註:主に常滑を拠点に活躍した陶芸家)が来られた時も、土を触りながら、“ここの人はこんな土でどうやってつくってるんだ”っておっしゃってました。
でも、そんな土の性質と、人間の工夫がせめぎ合って、丹波の技が発達してきたんだと思います。今はようやく僕も慣れてきて、心境としては、素直じゃない子どもを、”言うこときかん、面白い子やな”と思いながら育ててるような感じですかね。」