日本六古窯のひとつに数えられる丹波焼。今では美術工芸的作品から、日常づかいのうつわまで、幅広い焼きものがつくられている産地です。しかし、かつて戦後間もない頃には、産地として衰退の一途を辿っていた時期もありました。
そんな中、「用の美」を求めて丹波に移住したのが、京都の河井寛次郎のもとで修行を積んだ陶芸家・生田和孝氏。のちに清水俊彦の師匠となる存在です。慣れない土地で、生田氏が頼りにしたのが、俊彦の父・力磨でした。
「師匠は昭和32年に釜屋(丹波篠山市今田町にある地名)に来て、しばらくしてから生田窯を立ち上げたんです。その頃、うちの親父はよその窯3~4軒に手伝いに行ったり、分業仕事を請け負ったりしとったけども、焼きものだけでは生活できなくて、山から石を切り出す仕事をしよった。そこで、師匠に窯の仕事を手伝ってくれと頼まれたんですわ。師匠は京都で修行した人やから、丹波の窯のつくり方はわからないわけです。それでうちの親父が師匠の窯をつくった。
親父はそこから5年ぐらいは生田窯の仕事をしとったんやけども、55歳になった時に、癌でもうあかん、長くはない、いうことがわかってね。それでも親父は亡くなる数日前まで、生田窯に行ってました。」
あの時、父が生き永らえていたら、自分は焼きものの道には進まなかったかもしれない、と話す俊彦。清水家の次男坊だった俊彦は、当時まだ高校生。上の兄は、陶工ではない道を選び、すでに大阪で就職していました。
そんな中、自分の余命がもう長くないと悟った父・力磨は、まるで遺言のように「焼きものをやるなら生田さんの弟子になれ」と俊彦に言ったのです。
「私は親父から焼きものの手ほどきを受けたことはほとんどなくて、まあ遊びみたいにちょっとロクロやらしてもらったり、汽車茶瓶(昔、国鉄で使われていたお茶用の水筒)をつくる手伝いをしよったぐらいでした。 ただ、昔はこの近くに窯業試験場というのがあって、焼き物のいろんな試験やら研究をしとったんやね。私はそこで16歳ぐらいからアルバイトをしよったんです。ちょうど石膏型を使う技術が京都から丹波に導入された時期で、私もその作業なんかを勉強さしてもらっとったん。その当時、丹波には石膏型のやり方を知ってる人がおらんかったから、後々になって私のところにやり方を聞きにくる人もおったぐらい。ただ自分としてはそのバイトも、焼きものの道に進むためというよりは、単なる小遣い稼ぎのつもりで……。
親父は私に、焼きものしたらどうや、ってしょっちゅう言いよったけども、当時は私もあんまり乗り気やのうてね。ほんでも最終的に、親父がもうあかんことを知った師匠が、うちに来たらどうやと勧めてくれたもんで、3月に高校を卒業して、4月10日に親父を見送ってから、師匠のもとに弟子入りしました。
あの頃は、同級生で焼きものの道を選ぶやつなんかおらんかった。試験場におった先輩も、私がここに残って焼きものする、言うたら、こんなとこおったってしゃあないでよ、って言うとったわ(笑)」